それは、私がこの街に引っ越してきて、まだ間もない頃の、ある夏の日の夕暮れのことでした。慣れない仕事で、心身ともに疲れ果てて、帰宅した私は、玄関のドアの前で、最悪の事態に直面しました。家の鍵を、会社に忘れてきてしまったのです。スペアキーは、まだ、荷解きも終わっていない、段ボールの山のどこか。管理会社の営業時間は、とっくに過ぎています。途方に暮れた私は、マンションの廊下で、ただ、ぼんやりと座り込んでしまいました。どうしよう。このまま、朝まで、ここで過ごすしかないのだろうか。そんな、不安と、情けなさで、涙が出そうになった、その時でした。「あの、どうかされましたか?」。そう、声をかけてくれたのは、隣の部屋に住む、私と、同年代くらいの女性でした。私が、事情を話すと、彼女は、嫌な顔一つせず、「大変でしたね。良かったら、うちで、少し休んでいきませんか」と、優しく微笑んでくれたのです。お言葉に甘えて、彼女の部屋にお邪魔すると、冷たい麦茶と、手作りのクッキーを、出してくれました。見知らぬ土地で、一人、心細い思いをしていた私にとって、その何気ない優しさが、どれほど、心に染みたことでしょう。私たちは、とりとめのない話をしながら、一時間ほど、過ごしました。そして、私が、そろそろ、インターネットカフェでも探そうかと、腰を上げた時、彼女は、「もし、良かったら、うちの旦那、車を持ってるから、今から、会社まで、鍵、取りに行きますか?」と、信じられないような提案をしてくれたのです。初対面の、どこの誰とも分からない私に、そこまでしてくれるなんて。私は、何度も、お礼と、謝罪を繰り返しながら、そのご厚意に、甘えさせていただくことにしました。無事に、鍵を手に入れ、自分の部屋に入ることができたのは、深夜近くになっていました。翌日、私は、菓子折りを持って、改めて、隣の部屋を訪ねました。あの日の、彼女の優しさがなければ、私は、どうなっていたことでしょう。鍵を忘れたという、私の大きな失敗は、結果的に、この街で、初めての、そして、最高の、温かい繋がりを、私に、もたらしてくれたのです。